2011年5月アーカイブ

天文学の始まり

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紀元前6世紀ごろから、古代ギリシアやエジプトでは、科学的な世界観あるいは宇宙観を追求する学者が現れはじめました。とくに、ピタゴラスは数学の始祖(しそ)ともいわれ、自らが主宰(しゅさい)した教団から多くの学者を輩出(はいしゅつ)し、ピタゴラス学派とよばれています。とくにすぐれていたのは宇宙観で、地球は他の天体とともに「中心火」のまわりを回転する球体であると考えていました。宇宙では天体が数学的な法則にしたがって運動し、この運動が調和を生むという原理のもとで、天体の運行と音楽(和音)とを結びつけて考えてた。

紀元前3世紀に活躍したアリスタルコスは、このピタゴラス派の宇宙観を支持し、地球が自転しながら太陽のまわりを公転しているという説をとなえるに至りました。地球から太陽、そして月までの相対的な距離と、それぞれの大きさを概算する方法を編みだしました。さらに実際の観測を行って、地球から月及び太陽までの距離の比を1:18~20、月の大きさが地球の約3分の1、太陽の大きさを地球の約7倍と推定した。

近世以前の日本の天文学は「暦学」と呼ばれ、毎年の太陰太陽暦を作成するために、太陽や月、惑星の位置推算と日月食の予報が主な研究課題であった。我が国で正式に暦日を用いるようになったのは推古12(604)年のことであるが、当初より中国の暦法が用いられていた。江戸初期の貞享2(1685)年、渋川春海(しぶかわ・はるみ:1639~1715)が作った貞享暦への改暦が行われ、日本人の手になる暦法が生まれた。春海は初代幕府天文方(ばくふてんもんかた:江戸幕府内の天文役人で主に編暦をつかさどった)に命ぜられ、官学としての天文学がスタートした。その後、八代将軍徳川吉宗は西洋天文学に基いた改暦を計画したが、幕府に優秀な人材がなく果たせなかった。その後、宝暦5(1755)年には土御門家の安部泰邦(あべ・やすくに)により宝暦暦(ほうりゃくれき)への改暦が行われたが、欠陥の多い暦法であったため日食予報などにミスがでている。